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映画鑑賞という儀式

誰かのプロフィールにはよく、「趣味は映画鑑賞」といった文が見られる。確かに日本語には「映画を観ること」を「映画鑑賞」にすることができるが、やはりニュアンス的には違いがあるだろう。つまり、後者の方がよりまともな印象がある。それは中国語でも同じだ。

僕は、できるだけ「映画鑑賞」を追求している。決していい習慣ではないが、一般認識上の歴史に残った名作(ここはどうしても「ロッテントマト」や「IMDB」などの点数を参考しがちだ。これもいいことではない)は、できる限り画質の高く、質の高い字幕など、よく整えた鑑賞環境で鑑賞したいことだ。そしてなによりも面倒なのは、その日の機嫌と体調といった自分の身体の調子によっても作品の選択に左右することがある。

例えば今日は『ゴッドファーザー』を観る予定にしよう。しかし観る直前にお腹が急に痛くなったり、あるいは不味い料理を食べてしまったことで不愉快になったりすると、その日は絶対『ゴッドファーザー』を観ないことにする。なぜなら、『ゴッドファーザー』のような名作傑作を観るのに、万全な状態でない自分がもし安易に観てしまうと、それは同作に対する冒涜だと思ってしまうからだ。もししょうがなく観てしまったでも、それは「鑑賞した」と認めず、「観た」ことにする。

そのせいで、これまで「鑑賞した」作品数はわりと少ないのである。

しかし、なぜか最近はそのような気持ちが抑えられているような気がする。おそらく就活などでストレスがあまりにも強くなっているため、その発散の手段を映画を観ることに頼ったかもしれない。そうしないと、映画鑑賞という儀式の準備を終える前に、すでに身を滅ぼしてしまうだろう。